【ベトナム古都 ホイアン撮影旅行記②- 昼の顔 -】半端なくノスタルジックな世界遺産の街
こんにちは Gaotakです。
前回初めて訪れた街、ベトナムの世界文化遺産の古都ホイアン・夜の顔を写真でお伝えいたしました。ハノイともホーチミンとも全く雰囲気の違うとても美しい街。
今回は、「ホイアン旧市街地・昼~夕刻にかけての顔」を、わたくし、バンコク在住ド素人カメラマンのGaotakが撮影した画像でお伝えします。僕の心を捉えた、黄色の漆喰とカラフルなランタンに彩られた素敵な街をごらんください。
世界文化遺産 古都 ホイアン旧市街 昼~夕刻にかけての顔
来遠橋(日本橋)
人力三輪車「シクロ」が街を行き交います
露店で食べたバインチャンティッヘオ(豚肉のライスペーパー巻)屋のおばちゃん。うまかったなぁ!
こちらも後日ご紹介しますね。
ホイアン市場
レストランがいちいちオシャレなんです。
何故かカオナシのお面(笑
とにかく西洋人と韓国人、中国人が多い。多国籍の言葉が行き交います。
屋台のおばちゃんも人懐っこい。
ここでもウェディング写真の撮影。ベトナム人にとって、ホイアンはそんな街なのかもしれません。
ホイアン(ベトナム語: Hội An・英: Hoi An, 漢字:會安)とは、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナン市の南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。人口121,716人。ヨーロッパ人にはファイフォ 、フェイフォ(Faifo) と呼ばれたこともある。中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されると、その外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。
16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。1601年には広南阮氏は、徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。朱印状による約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど、繁栄を誇ったが、間もなく江戸幕府の鎖国により、日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。
17世紀後半、清朝と鄭氏台湾との対立から遷界令が出されたことは、さらにこの地域の交易を停滞させ、一時期の繁栄は失われていった。1770年代には、西山(タイソン)党の乱によって、町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。しかし、ホイアンと南シナ海を結ぶトゥボン川に、土砂が堆積して川底が浅くなった結果、大型船の往来に支障を来たす事となり、国際貿易港としての繁栄は、ダナン港へと移行した。一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。
私が感じたホイアンの人達の性格はハノイよりも、どちらかというと、ホーチミン寄りでしょうか。拙い一言二言のベトナム語を話すと、途端に興味を持ってくれます。難点と言えば・・・観光地にありがちですが、トゥボン河付近のボートの客引きと、ローカルと観光客用の二重価格が存在することぐらいかな。これは仕方ないかも。
ホイアンの昼の顔、いかがでしたでしょうか?
これまでたくさんの、アジアの国に訪れましたが、強く再訪したい街の一つとなりました。古都ホイアンは、きっと僕の性にあっているのだと思います。
さて今回のホイアン・ステイで2つの現地ツアーに参加したのですが、次回はその一つ ”チャム島ツアー” をご紹介いたします。・・・・これがまた、ちょっと大変でした(笑
【 ホイアン旅行記 】
①【ベトナム古都 ホイアン撮影旅行記- 夜の顔 -】半端なくノスタルジックな世界遺産の街
②【ベトナム古都 ホイアン撮影旅行記- 昼の顔 -】半端なくノスタルジックな世界遺産の街
③【ホイアン撮影旅行記】ホイアン~チャム島ローカル・1dayツアー
④【ホイアン撮影旅行記】これは楽しい。ホイアン~ココナッツ・ビレッジ・エコ・ツアー
⑥【ホイアン撮影旅行記まとめ】こんなに居心地のいいホテルは初めて “エッセンス ホイアン ホテル & スパ”
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